オレンジリボン運動 児童虐待防止運動を当社でも行っていますが、当社は関西を中心に活動しています。 が、全国にこの活動を広げていきたい、と言う想いに賛同してくださった女性起業家さんがいます。困った人を見ると手を差し伸べる、幼い頃からやってみたい、と思っていた人の役に立つお仕事がしたい、の想いが皆さんにも届きますように。

幼少期は親の経営するパン屋さんをお手伝い

東京都江東区北砂・下町のパン屋さんの家に1975年2月生まれました。裕福な家庭ではないが、母の思いから小さい時から近所の子をおんぶしたりあやしたり、常に家族の中によその子がいるのが普通でした。
小さいときは内気でいじめられっ子。いじめられることより、いじめないでやってくださいと言われた先生の言葉に傷ついたのを鮮明に覚えています。いじめるのにもいじめられるのも理由はあるんだとその時、理解していた気がしま
す。ただ、その時は、友達と過ごす事より自営のパン屋のお手伝いをする事が楽しくて、パンを売って「ありがとう」と言われ、お手伝い偉いねとお小遣いまでもらえ、なんてすばらしいんだ!と思っていました。

高校で芽生えた福祉活動への想い。でも・・。

高校に入り、尊敬している恩師が福祉活動をされいる事、世の中にはたくさんの人がいることを知る。自分の世界でしか生きていなかった私には衝撃的でした。恩師に私もやりたいと伝えたら、「おまえは向いてない、良いお母さんになれ」と言われ、ショックを受けました。その恩師の若くして亡くなり。

私は、福祉の道が自分の天性なんじゃないかと思いが止まらず、バイト代を貯めて、福祉専門学校に行こうとするも、入学金に少し足らず、それでもなんとか学校に行きたいと言う思いで親に相談をしたのですが、親の反対もあり断念。結局アパレル会社、ホテル配膳・結婚式介添え・和食配膳等数々の職を転々。としました。

結婚してこれだ!というものに巡り会えた

結婚をきっかけスピリチュアルな世界へものめり込む。インドで修行や人間とは何ぞやなど人生を模索。出産し子育て中、介護保険制度がはじまり、「これだ!」とすぐに受講資格を取得。ここが私のターニングポイント。介護福祉人生の始まり。その時、自宅ではヒーリングの会社を立ち上げていました。そんな中、SMSで知り合った当時18歳の女の子に出会う。彼女はモデルの仕事をして
学費を自分で稼いでいました。そんな彼女の生活は荒れていて、家は電気が止まりガスが止まり、一生懸命働いたお金を家に入れ、ベジタリアンであった彼女は食事の作り方も分からず、30キロ代になってしまいました。このままでは病気になってしまうのではと心配した私は、やせ細った彼女を自宅に招き入れ、週に4~5回は家で食事を取らせ、お風呂に入らせ娘のように接してきました。

この時、温かい家があり親が子を守る事は当たり前ではないんだと知る。彼女がきっかけで子育てについて興味をもち、色々なことを調べていくうちに、養護施設は18歳以下の子供を預かるが、18歳に達した時点でその後は誰も子供たちを守る制度が無い事。両親はいても、育て方や守り方が分からない大人が多すぎるということを知っていくうちに衝撃を受けました。そして、亡き恩師に言われたこの言葉を思い出しました。「良いお母さんになれ」。

それがきっかけでよその子もうちの子に。の思いで・・。

私は、自分のこどもだけではなく私の助けが必要な子供達大人たちのお母さんになりたいと言う思いが強くなりその後も、自宅には常によその子が家にいる生活は続く。養護施設から抜け出してしまった子を学校から頼まれ預かることもありました。また、義理の親に育てられ馴染まないで家でするくらいなら家で見ますと預かり…などなど。たくさんの子のお母さんをやってきました。

オレンジリボン活動は、子供たちは勿論ですが、大人になれない子供達 親世代へ、氣質を通して安心して暮らせる世の中に「みんなちがってみんないい」歯車がずれてギクシャクしてしまった親子関係に子供も気持ちが分からず、いらいらしてしまっているお母さんお父さんに、あんな親いらない!と思ってしまっている子供たちに、いじめる事しか気持ちの安定を得られない子供たちに。

全ての人に氣質を知る事は平和へつながる事と思って活動しています。いじめのない世の中に 、虐待や育児放棄、偏見のない世の中に 互いに高め合える世の中に 願いを込めてオレンジリボン活動し、私も成長していきたいと願います。